「ソドムの市」女子高生にはトラウマレベルの衝撃映画
「絶対に観ておいたほうがいい映画だから! 今日の放課後、一緒に観に行こう」
高校一年生の頃、クラスメイトのサヤカに誘われて観たのが、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の「ソドムの市」だった。
当時、広末涼子やキムタクが主演の映画やドラマが大人気だったが、サヤカはそういったものに全く興味を示さず、キューブリック監督の「時計仕掛けのオレンジ」や寺山修司の「百年の孤独」をいつも大絶賛しているような、ちょっと変わった女子高生だった。
私はサヤカの勧めてくる個性の強い映画や本、音楽などを「今まで見たことのないような異質な世界観をもったモノたち」として、割と好意的な感覚で受け入れていた。他の友人達は異質なモノを勧めてくるサヤカに嫌悪感を持っていたようだが、私は「新しい世界」を教えてくれる良い友人だと感じていた。
学校が終わり、サヤカとバスにのって街はずれの小さな映画館へ向かった。客席はガラガラで、おそらく十人もいなかったと記憶している。客層は、五十代以上の年配の男女が多かった。パンフレットを見ると「歴史的名作!」と大きな文字で書かれている。
名作、かぁ・・・。
どんな物語なんだろう、と期待で胸が高鳴った。
しかし、その期待は大きく裏切られた。観終えた後「どうしよう。多分、今日の夜眠れない。今後、トラウマになってしまうかも」と不安と恐怖で頭がはち切れそうだった。
「ソドムの市」のストーリーはこうだ。
権力者達が、田舎町から美少年、美少女達を誘拐し、豪華な屋敷に監禁する。権力者達は、美少年、美少女たちの排便を美しい食器に並べ、豪華なフランス料理でも食すかのように、微笑みながら味わったり、犬のように扱って虐めたりすることで興奮し、性的暴行を加える。ラストでは、美少年、美少女達の皮膚を剥いだり、目玉をくりぬいたりと、残虐な拷問をし、それを見て微笑むという恐ろしい地獄絵図が繰り広げられるという、とんでもない変態映画だった。
上映中、何名かの観客が、口を押えて出ていく姿が見えた。私も気分が悪くなり、退席しようか大分迷ったが、隣に座るサヤカが目をキラキラさせてスクリーンを観ている様子を見て、席を立つことができなかった。
「いやぁ、素晴らしい映画だったね」
放心状態の私に、サヤカは生き生きとした表情で言った。
サヤカってすごいなー・・・。私はこんな映画に「素晴らしい」と言い切る彼女の人と違う感受性に感動すら覚えた。
家に帰り、風呂に入っていても、食事をしていても「ソドムの市」の残虐シーンがフラッシュバックし「うっ」と気持ち悪くなった。そんな状態が一か月は続いた。
なんで、あの映画が「歴史的名作」と名高いのだろう。分からない・・・。今までになかったような過激な描写のある映画を作ると「名作」と言われるのだろうか。人の心に衝撃を与える力が大きければ、内容どうこうではなく、評価は高くなるのだろうか。
不思議だったのは、残虐シーンの衝撃度と同じくらい、変態権力者達の優雅な立ち居振る舞い、豪華な調度品、美しい音楽が高い芸術性を感じさせたことだった。下品すぎるものと誇り高く美しいものが同じレベルでもって成立しているというか、妙な世界観があることは確かだと思った。
名作ってなんだろう。素晴らしい映画って、芸術って・・・。
そんなことにグルグルと考えを巡らせるようになり、気が付くと、二十年以上たった今でも「ソドムの市」をふと思い出し、芸術や表現について考えることがある。一日で忘れてしまう映画はいくらでもあるが、何十年にもわたって、様々なことを考えるきっかけになった「ソドムの市」は、やはり名作と言わざるを得ない、と今では思うようになった。