作家志望で三児育児中の40代主婦

長女(8歳)、次女(3歳)、長男(1歳)の育児をしながら、小説やエッセイを書いています。

それって私のことかしら

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それって私のことかしら


「ミユミユなんて、産まれてこなければよかったのに」 

四歳の娘に、そんなことを言わせてしまった。

 今年の八月に次女ミユミユが誕生し、長女セーラのアイドル時代は終焉を迎えた。ごはんを食べているだけで「えらい」と褒められ、ちょっと躓いただけで、じいじ、ばあばが飛んできて手厚く介抱してくれる。まさに我が世の春状態。突然現れた新参者に、その地位を大きく脅かされることになろうとは、セーラ自身、思ってもみなかっただろう。

 下の子が産まれると、上の子は母親の愛情を取られたと感じて「赤ちゃん返り」をすることがある、ということは、育児書を読んで知っていた。私がミユミユにかかりっきりになってしまい、セーラに寂しい思いをさせないように気を付けよう、と出産前から夫婦で話し合っていた。

 しかし、そう簡単にうまくいくはずもなかった。ミユミユが生後一カ月の頃、一日に数十回と泣いていたが、その理由はほぼ「母乳が飲みたい」。夫が抱き上げてあやしても、顔を真っ赤にして、いつまでも泣いている。だって、求めているのは抱っこじゃなくて母乳なのだ。男に用はない。

「ミユミユに授乳してきていい?」

 私の膝に座り、パズルをしていたセーラにお伺いを立てると「え~」と口を曲げて抗議する。

「ミユミユ、お腹すいて泣いてるよ。かわいそうだねぇ。赤ちゃんは母乳しか飲めないんだよ。まだ、ごはんが食べられないからさ」

 セーラはしぶしぶ「あげてきていいよ」と不機嫌な顔でオーケーをだす。だが、時折、授乳中のミユミユの頬をグイグイと押し、私の胸元から引き離そうとすることがあった。そんな時は、どんなに言い聞かせても納得せず、私の背中を蹴りながら「いやだぁー!」と号泣する。ミユミユが産まれるまで、セーラはいつも私の膝の上に座っていた。自分の居場所が奪われてしまったようで悔しかったのだろう。仕方なく母乳を搾乳機で搾り取り、哺乳瓶に入れてミユミユに与えていたが、搾乳は痛いし、肩は凝るしで辛い。粉ミルクは味が苦手なのか一切受け付けなかった。

 夜間は二時間おきに母乳を欲しがるので、眠たくて、つい、添い乳(横になった状態で授乳すること)をしていたが、たまにセーラが目を覚ましてしまうことがあり、夜中の授乳シーンを目撃しては私の背中を蹴り、泣いて怒っていた。

 ミユミユが一歳になったばかりの頃、事件はおきた。

二人を連れて買い物へ行こうとした時、マンションの駐車場で財布を忘れてきたことに気が付いた。「ママ、うっかりだね~」なんてセーラと笑いながら話し、エレベーターで自室のある六階へ上った。この頃、ミユミユは一人歩きができるようになっていた。なぜかエレベーターの中が大好きで、六階についてもペタンと座り込み降りようとしない。「着いたよ、おいで~」と声をかけても、私達が先に外へ出ても、絶対に動かない。いつもは仕方なく抱き上げて降りるのだが、その日に限って、私の手を払いのけ、イヤイヤと駄々をこねる。セーラは扉が閉まらないように、外からボタンを押し、待ってくれていた。

 その時、ふと危険な考えが頭に浮かんだ。エレベーターから自室まで走って五秒。玄関ドアの鍵を開け、靴箱の上に置いてある財布を取り、鍵をかけるのに十秒。エレベーターまで戻るのに五秒。計二十秒。それくらいなら、セーラは外側からボタンを押し続けていられるだろう、と考えたのだ。

「セーラ、ママが財布を取りに戻っている間、ボタンを押し続けていられる?」

 セーラは一瞬驚いたような顔をしたが「うん、だいじょうぶ!」と力強く頷いた。

「二十秒で戻るから! すぐだから、お願いね!」

 エレベーターの奥で、きょとんとした顔で座りこんでいるミユミユをチラリと見届け、ダッシュで自宅へ戻った。靴箱の上に置いてある財布を手にとった瞬間「ミユミユーーーッ!」とセーラの大絶叫が聞こえた。何事っ!?

 私は急いでエレベーターへ戻った。ミユミユが扉に挟まったのか? 嫌な予感がし、心臓がドグドグと音を立てる。

「わあぁぁぁぁ!」

 セーラはゾンビでも見たかのような顔で泣き叫び、床にへたり込んでいた。エレベーターを見ると、上の階に上がっている。どうやら、ボタンを押し続けていることに疲れ果て、指を離してしまったとたんに扉が閉まり、ミユミユを乗せたまま上の階に上がってしまったようだった。

「ミユミユーッ! ミユミユーッ!」

 マンション中にセーラの絶叫が響く。上の階から「ぎゃあーっ!」とミユミユの泣き叫ぶ声がきこえ、その声を聞いたセーラは恐怖で頭を掻きむしり、半狂乱になって床を転がった。

 私はミユミユのいる階まで、階段で駆け上ろうと思い、階段のある方向へ向かった。あ、でもエレベーターのボタンを押して六階に戻したほうが早いかなと思い直し、引き返してボタンを押した。でも、やっぱり、上の階で扉が閉まる時、ミユミユが誤って扉に指を挟んだりしたら危ないかも。やはり階段で上がろうと思い直し「セーラ、ここで待っててね!」と言い、階段へ向かった。この時、私は頭の中がパニックになっていて、的確な予測・判断・行動は無理だった。

「ママーッ! ミユミユがっ! 指がはさまってるー!」

 背後から、セーラの叫ぶ声が聞こえる。慌てて戻ると、すでに六階へ戻ってきていたエレベーターの扉が開き、外へ出ようとしたミユミユの指がスライド式の扉の隙間に挟まっていた。

 まるで地獄絵である。一歳児の小さな指が扉に挟まり、痛みに泣き叫んでいる。それを間近で見て、恐怖で号泣する五歳児の姉。私はスライド扉の片側を強く押して隙間を作り、ミユミユを救出した。指は真っ赤になっていた。

「ごめん、ごめんね、ミユミユ! セーラ、ごめん!」

 泣き叫ぶ二人を抱きしめ、必死に謝った。ミユミユの指は赤くなっていたが、重症ではなかった。ミユミユはすぐに泣き止んだが、セーラは私にしがみつき、いつまでも泣いていた。相当、ショックを受けたようだ。

「ごめんね、セーラ。ママが悪かった。怖い思いをさせてごめん・・・」

 ガタガタと体を震わせているセーラの様子を見て、これはトラウマになってしまうかも、と頭の中はグルグルと後悔と自責の渦が回り続けていた。どうしよう・・・。

 

「なんてことしたの。五歳の子供にボタンを押し続けさせるなんて」

 夜、仕事から帰宅した夫に事情を説明すると、怒りと侮蔑が混ざったような目で私を睨んだ。

 私は何も言えず、俯いた。この出来事がセーラの心に影を落とし、エレベーターに乗るたび思い出して、苦しい思いをすることになったら・・・。ああ、なんてバカなことをしてしまったんだろう。床に額をこすりつけて、セーラとミユミユに謝りたかった。

 翌朝、保育園へ行く時に「エレベーターに乗るの怖い?」と玄関先でセーラに聞くと「うーん」と考え込んでいる。そうしているうちに、ミユミユはヨチヨチ歩きでエレベーターの前まで一人で進んで行った。昨日、指を挟んで泣いたことなど、すっかり忘れてしまっているようだ。

「あっ、ミユミユがっ」

 セーラは慌てて後を追った。そして、エレベーターに乗りたがっているミユミユのためにボタンを押した。私はハラハラしながら二人の様子を見ていた。大丈夫かな。扉が開くと、いつものようにミユミユが我先にと乗り込んだ。その時、セーラは・・・。

 なんと、エレベーターの扉に手をかけ、ミユミユが乗り込むのを静かに見守っている。乗り降りの際に、扉側面に人や物が当たると反応して開く「セーフティーシュー」とよばれる部分を手で押さえていた。ミユミユが中でぺたりと座り込む姿を確認すると「ママも入って。セーラがおさえておくから」と言うではないか!

「あ・・・、ありがとう!」

 私が中に入ると、セーラはセーフティーシューを押さえたまま、くるりと体の向きを替えて乗り込んだ。そして、背伸びをして一階のボタンを押した。

「セーラ、すごいね。ドアを押さえておけるなんて!」

 セーラは何も答えず、エレベーターが一階に到着すると、再びセーフティーシューに手をかけ、ミユミユと私が降りるのを静かに見届けた後、ひらりと外へ出た。

 なんということか。その後、エレベーターに乗るたびに、セーラは私達が乗り降りするまでの間、ひたすら扉を押さえ、挟まらないように見守る、優秀なエレベーターガールになったのだ! 聞くと、つま先立ちで長時間ボタンを押すよりは、セーフティーシュー押さえておくほうが楽だと、夫から教わったらしい。

 エレベーター事件以来、ミユミユに危なっかしい行動が見られると「きをつけて! あぶないよ!」と姫を守る騎士のように、セーラがすっ飛んでくるようになった。ミユミユの小さな手を引き、転ばないように、ぶつからないように支えている。そんなセーラに、ミユミユはすっかりなつき、近頃では私よりもセーラの方へくっついていく。

 ある日、トイレに入っていると「うわーん」とミユミユの泣く声が聞こえた。次の瞬間、ドンドンドン! とドアを強くノックする音。

「ママ! ミユミユがお腹すいて泣いてるよ! 早くおっぱいあげて!」

 ドアを開けると、セーラがミユミユを抱っこして立っている。あんなに嫌がっていたのに、今では率先して授乳を勧めるようになった。ソファに座り、授乳すると「良かったねぇ」と声をかけ、優しい瞳でミユミユを見つめている。

 姉妹愛の育っていく二人を見て「エレベーター事件、いいんだか悪いんだか、いや、悪いよ」なんて複雑な心境になる。

 何かの本で読んだが、母親がしっかりしていない場合、子供がしっかり者に育つ場合があるという。世間一般では、それを反面教師というようだ。